ミライへのタネ
-Pay it Forward-
ACADEMIA

あれから11年・・・

「まだ11年・・・」「もう11年・・・」と色々な言われ方をするけど、僕にとっては「もう11年」かぁと思う。

僕は、宮城県気仙沼市で生を受けた。僕の名前も、母が当時の気仙沼公立病院(今の気仙沼市立病院)の窓から見た景色から付けられた。

海外を転々としたり、仙台などの大きな都市に住んだりしても、いつも「ふるさと」と呼べるのは気仙沼であったし、これからもそうあり続ける。

はじめに

僕の生まれ故郷である宮城県気仙沼市は、2011年3月11日に地震と津波による壊滅的なダメージを受けた。僕はあの日、多くの親戚だけでなく、「ふるさとの風景」をも失った。それは「ふるさと」を無くしたことに等しい心境でもあった。

当時の状況

当時、オーストラリアのクイーンズランド大学で、修士号の課題をおこなっていた僕は、仲良くしていたクラスメイトの一人から「ニュースを見ろ!」と言われ、地震のことを知った。

国際電話で一瞬両親に連絡が取れたが、その後1週間ほど連絡が途絶えてしまった(停電のために携帯の充電ができなかったためということを後で知った)その連絡が取れない間、両親が生きているかどうかさえわからない心配な日が続いた。

のちに、両親は無事ということを知ったが、気仙沼で多くの親戚、仙台で7人の友人が亡くなったという話を聞いた。僕はショックで将来どうしていったらいいのかわからなくなったことを覚えている。

当時、観光学部の学生委員長的な役割をしていた僕にできた精一杯のことは、組織のメンバーと共にキャンパスで大学生や教職員の方々から募金を集め、日本赤十字に送ることだった。「できないことに失望するのではなく、できることを精一杯しよう」という意志だけで動いた。

その後、大学からも多大なサポートを受け、無事修士号と博士号を取得することができた。

帰国後・・・

2016年10月に日本へ戻り、今の大学に着任した後、僕の大学と気仙沼市が協定を結んでることを知り、とても嬉しく思った。また、この大学で、今は良き同僚・友人でベトナム出身のブイ先生と出会う。

フィールドワークのために、二人で気仙沼や宮城県を何度も訪れ、現地の方々と話をし、研究への多大な支援を受けた。気仙沼観光協会の熊谷さん、プラザホテルの堺さん、アサヤの廣野さん、MINATOの千葉さんなどからも大きなサポートをいただいた。

また、彼らのおかげで一度は薄れかけていた「ふるさと・気仙沼」という気持ちが戻ってきた。

その時、思ったのが「ふるさとは場所じゃない・・・人なんだ」

観光系トップクラスの国際ジャーナルへの出版

5年もの歳月をかけて調査をし、論文を書き、やっと今月、観光系国際ジャーナルトップの一つである Annals of Tourism Research にて出版することができた。

この1本の論文は、僕が今まで書いてきた、そしてこれから書いていく論文の中でも「超特別」だ。色々な体験、故郷への想い、気仙沼の人たちの愛情が入ってる。

そして、この国際ジャーナルを通し、気仙沼という小さな港町を世界中の人に知ってもらえる機会を与えてもらったことをとても光栄に思う。

論文「Recovery Convergency for Post Disaster Recovery」 Annals of Tourism Research

論文はこちらからフリーでダウンロード可能(出版社のルールにより最初の50人まで)https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0160738322000263?dgcid=author

一般の方々への情報発信も、うちの大学の広報などを通じて随時行っていく予定。

最新ニュース

この度、共著のブイ先生が文科省からの研究費「科研費 基盤B」を新たに取得した。よって、この研究の本格的継続(2022年度から5年間)決定!

気仙沼の皆さん!また毎年会いさいぐがらね!

海外にいても、国内にいても、どれだけ離れていても・・・心はふるさとと共にあり。

PAGE TOP